永瀬二郎さん。八郷町の現役の梨農家。かつ土日農研のみんなのもっとも長いお付き合いの地主さん。
義理堅く人情味豊か。これからはもう現れないであろう、とてつもない大きな心と素朴さをもったお百姓さん。
10年前、ボクが八郷町にワラジを脱ぎ(?)、”通いの土日農業”を始めたとき、昼飯のあと「田圃ブラ」をしていたとき出くわしたのが、ちょうど自分の田圃で稲の草取り作業をしていた永瀬さんでした。
しばし顔を見あわしたあと、「何してんの?」と声を掛けて下さったのでした。「ヤル気なら、俺の梨園の隣りの畑も耕していいよ」と 6アールほどの畑を、タダで貸していただくことになりました。
95年の夏、 この畑 A にソバを植え、永瀬さんとのお付き合いが本格スタートしたのでした。
畑 A に続き、翌年から自分の屋敷のすぐ下の畑 B も、ここはサトイモの適地だからと貸していただき、04年からは、老化した梨を切り倒した畑20アールを、これまたタダで貸していただくことになりました。
われわれはお金を出し惜しみしようなどとは思わず、かつて何度も地代をもっていったのですが、断固として受け取ってもらえませんでした。
1ヘクタールもの梨園で十分に儲かっているから? いいえ、違うでしょう。
遠くからわざわざ通うわれわれへの気遣い? それも違うでしょう。
しいて言えば、われわれが一生懸命に農業に打ち込んでいる姿、農業を楽しんでいる姿、技を学びたくて永瀬さんに栽培法を教えてもらう真面目な姿、これに永瀬さんの百姓魂が共鳴してのことかな、とボクはそのように思っています。
ボクらの一生懸命の姿勢は永瀬さんの梨作りの姿勢にそっくり通じている、というのがボクの観察です。
いや、一生懸命といっても、ボクらは同時に遊び心も大事にし、農作業を楽しもうというスタンスでやっていますが、 永瀬さんは、その雰囲気も感じ取り、ひょっとしたら微笑ましくボクらを受容して下さっているのではないか、ボクにはそう思えるのです。
梨作り 40年。有機農業を古くから重視し、農薬もできるだけ少なくし、甘くておいしい最高の梨を目指し あくなき研究実践を重ねてきた永瀬さんは、押しも押されもせぬ梨博士です。
梨の木の生態を知悉し、どうすればいい梨ができるか、どうすれば気候の変化に梨の木を最も良く適応させられるか、その処方を体で覚えているのです。
梨の前には、ほとんどの野菜作りを体験し、同じように各野菜の栽培法も完璧なまでに習得しています。それらはどれも実践的で科学的、かつ合理的です。恐るべきお百姓さん、というべきです。
素人の土日ファーマーにもそのことが分かりますから、ボクらは分からないところがあると、声をかけては真摯に永瀬さんに教えを乞うてきました。
永瀬さんは、ボクらにとっては、そうした意味の師匠です。畏怖すべき存在だとボクは思っています。
今日、こうした人がどれだけボクらの周りにいるでしょう。まったく稀有な存在というべきです。
ありがたくてありがたくて仕方ありません。ボクは、この 10年、八郷に出動するたび、必ず永瀬さんにお礼のハガキを出し続けてきました。
70歳を越えた永瀬さんは、さすがに腰が痛いなどと口にするようになりましたが、同じ年のお百姓さんと比べると、圧倒的に元気です。
若くして奥さんをガンで失くし娘さん二人を男手一つで育てられ、一人暮らしを貫いておられる生き方は、あまりに激しく厳しく、われら凡夫の理解を超えています。“「農」を追求する孤高のお百姓さん”と言ったら、言いすぎでしょうか。
去る2月8日の初出動の日、梨の枝を横に曲げる結束作業をしていた永瀬さん。
しばらく立ち話をし、年齢のことに話が及んだとき、ポツリとこう言われました。
夫婦どちらかが若くして逝ってしまうと、残された方は、連れ合いの分まで生きようとするんだろうね、凄く長生きするって言うよね、と。
ボクは思いました。永瀬さん、気力充実だな。大丈夫、まだまだ現役で頑張られるな、と。
さらに凡夫は思いました。われわれ、まだ永瀬さんからいろんなことを教えてもらえるんだ、と。
長い話になりました。素晴らしい、いなかの一人のお百姓さんの生き様を聞いていただきました。
(04年2月10日 宮崎記す)
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