11月12日/
◆<七騎落 海路の情理 交々に>
・源頼朝は石橋山の合戦に敗れ、8騎で安房上総へ逃れようと船一艘を確保した。
・しかし祖父爲義・父義朝が8騎で敗走したのを思い出し、「8は不吉の人数だ」と。
・頼朝は一人下船させよと土肥実平に命じた。最年長かつ艫板に近い岡崎義実か?
・(主君に就き従いたく) 岡崎は昨日自分は一子失い今は命は一つ、と理屈を言う。
・そして「実平は子息の遠平と命を二つ持っている。親子いずれか下りるべし」と。
・余りの道理・・・だが結局、実平はなかなか承服しない遠平を泣く泣く下船させた。
・皆のやるせない思いを乗せ船は遠ざかると、後から和田義盛の船が追ってきた。
・頼朝方に意を通じていた和田は、遠平を生捕る風を装い船底に隠していたのだ。
・主従歓喜の酒盛りをし実平は一さし舞う。直に御勢20萬騎にもならんと祝って。
・石橋山の合戦につき、ネット(コトバンク)より、以下に。
1180年(治承4)8月、相模(さがみ)国石橋山(神奈川県小田原市南西部)で、平氏方の大庭景親(おおばかげちか)らが源頼朝(よりとも)の軍を破った戦闘。8月17日、伊豆北条に挙兵し、同国目代(もくだい)の山木兼隆(やまきかねたか)を討った頼朝は、ついで三浦氏の軍との合流を望み相模に進出、石橋山に布陣した。しかし23日夕、景親勢がこれを強襲、伊東祐親(いとうすけちか)も背後をうかがった。三浦の大軍との合流を阻止された頼朝勢は大敗したが、飯田家義(いいだいえよし)、梶原景時(かじわらかげとき)など、景親の手に属しながらも内応する者があり、彼らの計らいで絶命の危機を逃れた頼朝は、箱根山中を経て土肥郷(どいごう)(神奈川県湯河原町、真鶴(まなづる)町)に脱出、28日には真鶴岬から海上を安房(あわ)(千葉県)に渡り、再挙を図ることになった。