月別アーカイブ: 2021年11月

謡曲「玄象」(げんじょう)

11月21日/

◆<幻象てふ 琵琶幽玄の 楽を成す>

・琵琶名人・藤原師長は唐土への旅を思い立ちその途上、津の国・須磨浦に着く。

・一行は塩焼きの老人と姥に頼んで塩屋に一宿し、夜通し琵琶を弾いて聴かせた。

・雨が降り出し演奏を中止すると、老人は機転を利かし板屋根の上に苫を葺いた。

・雨音は穏らぎ障りが取れ師長は老人の深慮に感謝し、琵琶を貸し演奏を勧める。

・老人は恥じらい塩屋を抜けようとする。引き留められ老人と姥の正体が分かる。

・琵琶の名器「玄象」(げんじょお)の元の持ち主、村上天皇と梨壺女御だった。

・師長の出国を思い留まらせるべく二人で現れた(尊霊)と明かし消えて行った。

・やがて真の姿を現す帝。かつて龍神に琵琶の名器「獅子丸」を奪われていたのだ。

・取り戻さんと海底の龍神を召し出す。獅子丸を差し出させそれを師長に授けた。

・八代龍王も鼓をもち、師長、帝も一緒に秘曲を奏で天高く帰ってゆくのだった。

謡曲「玉鬘」

11月20日/

◆<玉鬘 渦巻く早瀬の 木の葉舟>

※ネット「銕仙会 能楽事典」より『玉鬘』の解説(文:中野顕正)を以下に引きます

概要

旅の僧(ワキ)が長谷寺にさしかかると、小舟に乗って初瀬川をさかのぼってくる一人の女(前シテ)に出会う。二人は長谷寺に参詣し、女は僧を「二本ふたもとの杉」へと案内する。『源氏物語』に登場する玉鬘内侍たまかずらのないしゆかりの木であると教えた女は、玉鬘の憐れな運命を語って聞かせる。やがて、実は自分こそその玉鬘の幽霊なのだと明かすと、女は姿を消してしまった。

夜、僧の夢中に玉鬘の霊(後シテ)が在りし日の姿で現れ、仏にすがる心と恋の妄執との間で板挟みになっている葛藤を述べる。払えど払えど湧き起こってくる情念に苦しみ苛まれる玉鬘であったが、過去の罪障を懺悔し、遂に解脱を遂げるのであった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキが登場し、自己紹介をします。

大和国 長谷寺。初瀬はつせの山の中腹に建つこの寺は、観音菩薩の霊験あらたかな古刹として、貴賤の人々の信仰を集めていた。それは、絶えることなき声明の声が山々にこだまして澄みわたる、寂寞たる霊場。

その長谷寺を目指す、一人の僧(ワキ)がいた。奈良の社寺の参詣を終えた彼は、霊験あらたかな長谷の観音を拝もうと、この地へやって来たのであった。

2 前シテが登場します。

この地を流れる初瀬川はつせがわは清く透き通り、岩間伝いに流れる水の、サラサラと澄んだ響きが心地よい。薄もやのかかる、谷あいの地。

その初瀬川の下流から、舟に乗った一人の女(前シテ)が現れた。「寄る辺のない、今のこの身。私ひとりで漕ぐ舟は、なんと淋しげで、不安定なものなのでしょう。妄執の心は晴れやらず、雫に濡れゆく私の袂…」。

3 ワキは前シテと言葉を交わします。

女人の身でひとり小舟を操る、彼女の姿。訝る僧に対して女は、自分は長谷寺に参詣に来た者で、この地は歌にも「海士小舟あまおぶね初瀬の川」と読まれている、舟に縁のある地なのだと教える。

頃しも秋。山の木々はほのかに色づき、空には雲が流れてゆく。うっすらと霧のかかるこの谷あいに、聞こえてくるのは初瀬川の川音ばかり…。

4 前シテはワキを名所「二本ふたもとの杉」へと案内します。

女は、境内にある杉の木へと僧を案内する。四方の山々が一色に紅葉する中にあって、常盤の緑を保つこの木。それは、「二本ふたもとの杉」という、古歌にも詠まれる名所であった。

女は語る。「源氏物語のその昔、玉鬘内侍たまかずらのないしがこの寺に参詣した折、光源氏に仕える右近という女が彼女を見つけた場所こそ、この木のもと。お坊さまも、玉鬘の運命を憐れと思い、弔ってやって下さい…」。

5 前シテは、いにしえの玉鬘の故事を語ります(〔クリ・サシ・クセ〕)。

――それにしても、玉鬘の気の毒なこと。母・夕顔上が儚い露と消えて後、遙か筑紫まで旅立ってゆくことに。都の空を懐かしみ、鄙の住まいに耐えかねて、必死で都へ帰ったものの、もとより根無し草の身。頼りとなる人もなく、辛いばかりの日々。そんな中、この寺に詣でた彼女は、思いがけず、かつて母に仕えていた右近に出逢えたのだった…。

「今日私がお坊様と出会えたのも、思えばそれと同じこと。全ては仏様のお導き。ですからどうか、玉鬘の迷いを晴らして下さいませ…」。

6 前シテは自らの正体を仄めかして消え失せます(中入)。

女から明かされた、遠い昔の物語。あわれ玉鬘の、寄る辺なき身の境遇。

「まこと、憐れと思って下さい。お坊様、どうかお頼み申します。玉鬘の亡き跡を、弔ってやって下さいませ。実はかく言う私こそ…」 そう言うと、女は姿を消してしまうのだった。

7 間狂言が本舞台に進み出、ワキに物語りをします。

そこへやって来た、この土地の男(間狂言)。彼は僧に尋ねられるまま、いにしえ玉鬘がこの寺に参詣した故事を語る。僧は、先刻の女こそ玉鬘の霊だと確信するのであった。

8 ワキが弔っていると後シテが現れ、妄執のありさまを見せます(〔カケリ〕)。

前世の宿業によって今もなお苦しみを受けている、玉鬘の霊魂。しかし、いかなる迷いの闇なりと、仏の慈悲の光は照らし出してくれるのだ…。 僧は玉鬘のため、祈りを捧げる。

すると、弔いの声にひかれて、玉鬘の霊魂(後シテ)が姿を現した。仏の救いにすがる彼女の思いとは裏腹に、艶やかな黒髪は恋の妄執によって乱れたまま。救いへの希求と過去への執心との間で板挟みとなった彼女の、何ともいたわしい、苦しみの姿。

9 後シテは妄執に苦しむ姿を見せますが、最後には成仏を遂げ、この能が終わります。

「妄執ゆえに心は晴れず、涙の露は乾くときがない。初瀬の山風に、そんな私の迷いなど散り散りになってしまえ! そうして私のこの身も、秋の葉のように朽ち果ててしまえばよいのです…」 ある時は湧き上がる恋の思いに咽び泣き、またある時は思いの炎に身を焦がす。

しかし、そのような思いももはやこれまで。過去の妄執と決別した彼女は、遂に、永遠の迷いから脱することができたのであった。

みどころ

奈良県桜井市に建つ長谷寺は、現世利益を叶えてくれるとされる観音菩薩の霊場として、平安時代以来、貴賤の人々の信仰を集めてきました。10メートルを超える本尊・十一面観音は、祟りをなすほどの強い霊力を帯していた巨木から彫り出されたとの伝承をもつ、きわめて霊験あらたかな仏像で、今なお参詣の人々をやさしく見守ってくれています。

本作は、その長谷寺を舞台に、『源氏物語』のヒロインの一人・玉鬘内侍の物語を描いた作品となっています。玉鬘内侍は、《夕顔》《半蔀》のシテである夕顔上ゆうがおのうえの娘と生まれ、数奇な運命をたどった人物として、『源氏物語』の中では描かれています。本作の背景となっている玉鬘の人生とは、次のようなものでした。

――光源氏が夕顔上との逢瀬を楽しみ、その夜、物の怪によって夕顔上が取り殺されてしまった頃。夕顔上と頭中将(光源氏の親友でありライバル)との間には、秘密の子として、一人の娘が生まれていた。その子こそ、のちの玉鬘内侍。隠し子ゆえ頭中将から表立って娘としての待遇を受けることもできず、今また母を亡くしたことで、玉鬘の運命は急変する。

当時、西の京で乳母に育てられていた玉鬘は、乳母が大宰少弐(九州 大宰府の役人)と結婚したのに伴い、筑紫(現在の福岡県)へと赴くことに。馴れない鄙の旅、しかも筑紫では恐ろしい土豪に求婚される始末。命からがら都に逃げ帰ってきた玉鬘であったが、もとより頼りとすべき人もおらず、根無し草のような日々であった。

そんなある日、長谷寺に参詣した玉鬘は、偶然、かつて母に仕えていた右近うこんと出逢う。今は源氏に仕える右近の仲介によって、玉鬘は源氏の養女として引き取られることになったのであった。しかし、安心したのも束の間。帝をはじめ、玉鬘を求めて多くの求婚者たちが名乗りを上げ、玉鬘は心苦しい日々を過ごす。さらには、庇護者であった源氏自身までもが、玉鬘に恋の思いを抱くのであった…。

玉鬘の人生は、常に運命に翻弄され、波間に揺れる小舟のように寄る辺のない境遇に置かれ続けていたのでした。そうして、不本意ながらも多くの男たちの心を動かしてしまったこと、成就することの無かった恋の数々…。そんな彼女の苦しみが、本作では取り上げられています。

本作の作者は金春禅竹と考えられています。金春禅竹は和歌や源氏物語の世界に並々ならぬ関心を寄せていたことが知られ、源氏物語関連の能では他にも《野宮》を作っています。

禅竹は、当時の一流の知識人たちと交流を持っていたことが知られています。その中の一人で、摂関家のひとつ一条家の当主でもあった一条兼良いちじょうかねらは、当時の大学者として知られ、禅竹が自らの芸術観を述べた書物『六輪一露之記』にも学者としての立場からコメントを寄せています。この一条兼良が著した源氏物語の注釈書に『花鳥余情』という書物があり、源氏物語解釈の新時代を切り拓いた書物として今日でも高い評価を受けていますが、そのように源氏物語への深い理解をもった学者が金春禅竹の交友圏にいたことは、本作のような、源氏物語のヒロインの内面へと迫ってゆくような作品が作られる上で、多大な影響を与えていたことでしょう。

そうした刺激を受けながら、運命に翻弄されるヒロイン・玉鬘内侍の心の悩みや苦しみを巧みに描き出したのが、本作の作品世界となっています。(文:中野顕正)

謡曲「楊貴妃」

11月19日/

◆<楊貴妃の 連理の枝の 空高く>

・唐の玄宗皇帝は安禄山の乱で亡くなった楊貴妃の魂魄の在り処を探せと命じる。

・命を受け仙術士である「方士」は蓬莱宮に至り、そこ人に楊貴妃の居場所を聞く。

・方士が、教えられた楊貴妃の住まう太真殿へ行くと、宮殿から楊貴妃が現れる。

・方士は帝の嘆きぶりを話して聞かせ、邂逅を報告する証明はないか申し出る。

・楊貴妃はこれに応えて、髪に挿していた釵(かんざし)を方士に渡そうとする。

・方士はありふれた物では不足、玄宗と楊貴妃との間で交わした言葉を要求する。

・7月7日の夜、二人で交わした「比翼連理」という睦言があると楊貴妃が答える。

・空にあれば翼を並べる鳥に地上にあれば枝を連ねて離れない木に!という謂い。

・会者定離とはいえ、楊貴妃は玄宗との愛に生きた昔を懐かしみつつ舞を舞った。

・釵を携え方士の霊は都へ去り、楊貴妃はただ独り蓬莱の臺に座り込むのだった。

[楊貴妃と長恨歌についてもっと知るために:ネットthe-Noh.comから、以下を引きます]
主人公は中国・唐代に絶世の美女として名をはせた、楊貴妃。物語の舞台は、蓬莱宮。中国の伝説にある仙界です。楊貴妃が死後にその地に住んでおり、楊貴妃を愛した玄宗皇帝の命を受けた方士、すなわち仙術を駆使する者が、彼女を探し求めて訪問するところから、能は始まります。亡霊・精霊と僧が現世で交錯する、よくある三番目物の夢幻能とは設定も大きく違う、異色の能です。唐の詩人、白楽天が、玄宗と楊貴妃の悲運の愛の物語を詠んだ「長恨歌」をベースにしており、能はその後半部分のストーリーを脚色しています。この曲を味わうには、楊貴妃の人物像や彼女が死んだ背景を知ることが助けになりますので、「長恨歌」の前半部分をもとにしながら、ここでその内容を紹介します。

楊貴妃(719〜756)は、蜀の楊家に生まれ、玉環と名付けられました。幼時に父母を亡くした彼女は叔父の養子となりました。その後、生来の美貌から、玄宗(685〜762:唐の第9代皇帝)の十八子、寿王の李瑁(り・ぼう)の妃になりました。ところが、その美しさに心を奪われた玄宗は、楊貴妃を自分の後宮に入れてしまいます。玄宗が楊貴妃を寵愛したことから、彼女の親族も唐の要職を担うようになります。その一人が、楊貴妃の従兄弟、楊国忠(?〜756)でした。楊国忠は宰相として権勢を振るいますが、やがて、唐の軍人で楊貴妃の養子となった安禄山(705〜757)と激しく対立します。その結果、安禄山は唐に対し安史の乱を起こします。安禄山の攻勢を受け、玄宗は首都長安から逃げ、楊貴妃や楊国忠も同行しました。しかし、馬嵬(ばがい)という場所に着くと、皇帝警護の親衛隊が、乱の原因を作ったと咎めて楊国忠を殺し、楊貴妃の死も要求します。そしてついに、楊貴妃は玄宗の命により縊死させられてしまいます。長恨歌には、乱が鎮まった後、皇帝は深い悲しみのうちに、道士(方士)に楊貴妃の魂魄の行方を探させたと書かれ、そこから能の物語につながっていきます。

それにしてもなぜ、楊貴妃は仙人の世界にいたのでしょうか。楊貴妃は、女道士として、いわば出家した後に玄宗の後宮に入りました。露骨に、息子の妃を奪い取ったかたちにしないためだったと考えられます。彼女の道士名は「太真」であり、能で「太真殿」が楊貴妃の宮として示されたことの背景でもあります。

謡曲「敦盛」

11月18日/

◆<百代の 過客は笛は 能敦盛>

・源氏方の熊谷次郎直実は一の谷で討った平敦盛が不憫で、出家し蓮生と名乗る。

・蓮生は敦盛の菩提を弔うため一の谷を訪れる。笛の音がして草刈男達が現れる。

・夕暮れて皆帰ったが一人だけ残り、蓮生が聞くと男は「敦盛に縁ある者」と答え➡

・「十念(南無阿弥陀仏と十回)を唱えて欲しい」と。蓮生が唱えると男は消えた。

・蓮生は男が敦盛と分かり、夜、その菩提を弔うと敦盛の霊が往時の姿で現れる。

・敦盛は「今は真の法の友」と喜び、来し方を語り最期の日の前夜を想い舞を舞う。

。そして一の谷。直実と一騎打ちし討たれた様を語り蓮生に回向を頼んで消えた。

・(注)敦盛は一の谷合戦当時16歳、平安の貴公子然とした笛の名手だった。また

 祖父忠盛が鳥羽院から賜った名笛は、父の経盛→子の敦盛へと代々受け継がれ、

 小枝(さえだ)と呼ばれた。(最後の1文:the-Noh.comを参考に)

謡曲「鵜飼」

11月17日/

◆<鵜飼哀し 鵜も魚もみな 定め持ち>

・安房清澄 (鴨川市辺り)の僧が従僧を連れ甲斐へ旅し、石和 (笛吹市石和町)に着く。

・日も暮れ石和川のほとりの御堂で一夜を取ると、一人の鵜使いの老人が現れた。

・僧は老人に殺生を止め他業で身命を繋ぐよう言うが、老人は今更無理と答える。

・従僧は以前、岩落という所で鵜使いに殺生を止めるよう意見したのを思い出す。

・なのに鵜使いの家でもてなされたと話すと、老人はその彼は殺されたと明かす。

・岩落辺り上下三里は殺生禁断の場だが密漁が多く、彼は悪を暴こうと出かけ➡

・逆に悪者どもに取り囲まれ、一殺多生の理とばかりに川の波底に沈められたと。

・自分が鵜使いの亡者だと明かし、請われて鵜漁の様子を見せた後、闇に消えた。

・悲惨な話を前に僧らは川石を拾い、法華経の経文を一石に一字書き老人を弔う。

・閻魔が現れ、老人の殺生の罪は”一僧一宿”の功徳もあり、救いを得たと告げる。

・旅僧は、清澄で修行していた日蓮上人その人である、とも伝えられる。

・松尾芭蕉に次の句がある。「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉(うぶねかな)」

※ 悪者どもに取り囲まれ~(即ち死んだ理由)は解釈に確たる自信はありません。

  諸賢のご教示をお願いします。    (宮﨑隆典)

謡曲「班女」(はんじょ)

11月16日/

◆<班女の愛 閉じることなき 扇かな>

・美濃野上の宿の遊女と吉田少将は東国へ行く少将が投宿した宿で恋に落ちた。

・二人は扇を交換し将来を誓い別れる。花子は少将を想い毎日扇を眺めて暮らす。

・あげく宴席の勤めをしなくなった花子を宿の主人は宿から追い出してしまう。

・東国からの帰途、少将は野上の宿を訪ねるが、花子はいず落胆し京の都へ帰る。

・少将は宿願を持って糺ノ森(下賀茂神社)に詣でる。すると班女・花子が現れる。

・壬生忠見詠の「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひ初めしか」➡

・という歌を謡う花子。少将を探し求め班女の狂女 となり京を彷徨っていたのだ。

・少将の従者が班女に狂って見せよと露骨に言う。班女は慫慂と受止め舞を舞う。

・それを見ていた少将は班女の舞の手にある扇に目を留め、それを見せよと頼む。

・少将と花子は互いの扇の絵を見て、恋焦がれていた恋人だと確かめ喜び合った。

・野上は、今の岐阜県不破郡関ヶ原町野上。糺の森は、ただすのもり、と読む。

・上掲の壬生忠見の歌は良く知られた「百人一首」の中で人気最上位クラスの歌。

・(注)班女とは・・・中国・前漢の時代に成帝の寵妃であった班婕妤(はんしょうよ)のこと。趙飛燕に寵愛を奪われたことから、秋には捨てられる夏の扇に自らをたとえて嘆いた詩「怨歌行」を作った。以来、捨てられた女のことを秋の扇と呼ぶようになったという。この故事をもとに、離れ離れになった遠くの恋人を想い、扇を眺め暮らす花子にあだ名がつけられたという設定。(この項はネット「the-Noh.com]より)

謡曲「蟻通」(ありどおし)

11月15日/

◆<蟻通 明神讃ふ 歌の才>

・紀貫之は和歌の神たる紀州・玉津島神社に参詣した。日が暮れ大雨が降ってきた。

・馬までが倒れ伏し立往生した所へ宮人が現れる。その様を見咎めた宮人は言う。

・「ここは蟻通明神の門前、乗馬のまま通り過ぎようとした非礼が祟った」と・・・。

・宮人は問い質し貫之だと知ると、「神に対し歌を奉納し詫びるとよい」と勧める。

・貫之が詠む。雨雲の立ち重なれる夜半なればありとほし(蟻通)とも思ふべきかは

・宮人の心に叶い、神慮にも沿う歌であり、宮人が馬を引くと馬は起き上がった。

・貫之は宮人に祝詞を奏上するよう頼み、宮人はそれに応える。神楽も舞われる。

・宮人は実は蟻通明神の化身だった。貫之の歌に感じて現われたと告げ姿を消す。

・神霊を見送り貫之は喜びの神楽を奏し、夜が明けると(貫之の霊は)空へ旅立った。

・(注)世阿弥の作である。貫之の詠歌中の「ありとほし」は、「有り]と「星」の掛詞。


謡曲「融」

11月14日/

◆<融大臣 永遠に塩竃 庭に観る >

・中秋の名月の頃、東国の旅僧が京の六条河原院辺りへ来ると老人が一人現れる。

・老人が六条河原で水を汲もうとすると僧が訝るので、老人はその謂れを語った。

・河原左大臣と呼ばれた源融が陸奥塩竃の景観を此処に移し住んだと謂われると。

・融は難波の潮を汲ませ院の庭で塩を焼いたが、後継がなく今は荒れてしまった。

・僧は(老人を慰めようと)都の名所を聞く。山々の名が挙がり二人名月を愛でる。

・老人はつい長話をしたと言って水を汲む様子を見せた後、姿を消してしまう。

・僧は、この老人こそが河原左大臣の亡霊だったのだと思い当たり、眠りにつく。

・すると融の亡霊が現れ、「我こそは融の大臣である」と名乗り遊舞の舞を舞った。

・塩竃の美しい景色が謡われる。「月宮殿の白衣の袖も三五夜中の新月の色・・・」と。

・融は時を忘れ興じ、夜明けと共に名残惜しい面影を残し月の都へ戻って行った。

・(注) ①みなもととおる、は嵯峨天皇の12皇子。源氏物語のモデルとも言われる。

②左大臣まで上るが、政争に敗れ六条河原に大邸宅を造営、風雅な余生を送った。

③「百人一首」の歌:陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに。

謡曲「砧」

11月13日/

◆<妻の砧 打つ音万里を 往き還れ>

・九州蘆屋の某は訴訟のため上京して3年経ち、妻の待つ故郷へ侍女夕霧を使わす。

・妻はつれない夫を嘆く。里人が打つ砧の音が聞こえ来て侍女は砧を妻に与える。

・<唐土の蘇武が打った砧の音が万里の先の妻子へ届いた>故事を妻は思って➡

・思いを込め砧を打ったが、「夫は今年の暮れにも帰れない」と侍女に明かされる。

・妻は病に伏し命を落とす。後に帰郷した夫がそれを知り慙愧の思いで妻を弔う。

・妻の亡霊が打ちひしがれた様で夫への愛憎を語り、夫の読経の功徳で成仏する。

・砧とは・・・衣板(きぬいた)の略。木づちで布を打つときに用いる木や石の台。

 打つこともいう。布を柔らかくし目を詰めツヤを出すためのもの。

・蘇武につきネット(コトバンク)を引きます。

蘇武は中国、前名臣。字(あざな)は子卿(しけい)。匈奴(きょうど)遠征にをたてた父健の保任(父の官職により子、弟が官につくこと)により郎となる。武帝のときの紀元前100年、中郎将として、漢に拘留された匈奴の使者の返還のため匈奴に赴いた。匈奴は彼を屈服させようとしたが、これを拒否。そのため穴倉に幽閉され飲食も断たれ、雪と旃毛(せんもう)(毛織物の毛)で飢えをしのぎ、さらに北海の地に雄羊放牧のために移されると、野ネズミ、草の実を食べる生活を強いられ辛苦を重ねた。のち、匈奴に降(くだ)った李陵(りりょう)が降伏を説得したが聞き入れず、昭帝(在位前87~前74)のとき、両国和親によりやっと帰国が実現した。その間、19年。帰国後、典属国を拝命、関内侯を賜った。死後、麒麟(きりん)閣にその像が描かれ、彼のを貫き通した行動が後世の模範とされた

謡曲「七騎落」

11月12日/

◆<七騎落 海路の情理 交々に>

・源頼朝は石橋山の合戦に敗れ、8騎で安房上総へ逃れようと船一艘を確保した。

・しかし祖父爲義・父義朝が8騎で敗走したのを思い出し、「8は不吉の人数だ」と。

・頼朝は一人下船させよと土肥実平に命じた。最年長かつ艫板に近い岡崎義実か?

・(主君に就き従いたく) 岡崎は昨日自分は一子失い今は命は一つ、と理屈を言う。

・そして「実平は子息の遠平と命を二つ持っている。親子いずれか下りるべし」と。

・余りの道理・・・だが結局、実平はなかなか承服しない遠平を泣く泣く下船させた。

・皆のやるせない思いを乗せ船は遠ざかると、後から和田義盛の船が追ってきた。

・頼朝方に意を通じていた和田は、遠平を生捕る風を装い船底に隠していたのだ。

・主従歓喜の酒盛りをし実平は一さし舞う。直に御勢20萬騎にもならんと祝って。

・石橋山の合戦につき、ネット(コトバンク)より、以下に。

1180年(治承4)8月、相模(さがみ)国石橋山(神奈川県小田原市南西部)で、平氏方の大庭景親(おおばかげちか)らが源頼朝(よりとも)の軍を破った戦闘。8月17日、伊豆北条に挙し、同国目代(もくだい)の山木兼隆(やまきかねたか)を討った頼朝は、ついで三浦氏の軍との合流を望み相模に進出、石橋山に布陣した。しかし23日夕、景親勢がこれを強襲、伊東祐親(いとうすけちか)も背後をうかがった。三浦の大軍との合流を阻止された頼朝勢は大敗したが、飯田家義(いいだいえよし)、梶原景時(かじわらかげとき)など、景親の手に属しながらも内応する者があり、彼らの計らいで絶命の危機を逃れた頼朝は、箱根山中を経て土肥郷(どいごう)(神奈川県湯河原町、真鶴(まなづる)町)に脱出、28日には真鶴岬から海上を安房(あわ)(千葉県)に渡り、再挙を図ることになった。